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本連載「技術者倫理入門」の第1回から第10回までに、技術者倫理の基礎的な事柄を解説しました。今回から技術者倫理の理解度を深めて頂くために、技術者倫理に関する具体的な事例を取り上げ、解説します。第1回目は技術者の優れた意思決定により、大きな災害を防ぐことができた代表的な事例「シティコープビルの設計変更」を解説します。
1.シティコープビルの概要
シティコープビルは米国ニューヨークのマンハッタンの中心街に建設され、1977年にオープンしました。ビルの敷地区画の一部に教会(9階相当の高さ)があり、この区画は教会の所有地で、協会は建物の移転を強く拒否していました。なお、教会の高さより高い空間の権利(空中権)はシティコープビルが所有しています。図1に示すように、教会の9階の高さを持つ4本の脚柱の上に50階の建物を建て、その4本の巨大な脚柱は各辺の中央に位置している構造です。
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図1 ビルと教会の位置関係と4本の脚柱 (注1) |
そのビルの所有地は、一角に建てられている教会を残したまま、地上より9階の高さまで巨大な脚柱をつくり、その上部に50階建てのビルを建設しています。教会の関係で、脚柱は4つのコーナー(角)ではなく、ビルの側面の中心に位置しております。仮に、教会が建物の移動を了解してくれたら、巨大な4本の脚柱は、安定感のある設計として、全区画の4つのコーナーに建てられたことでしょう。
また、図2に示すように、ビルの強度を保つために大きな斜めの筋交いを入れる構造になっております。
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図2 斜めの筋交い構造 (注2) |
なお、ハリケーンによる強風がビル側面に当たってビルが揺れることを防止するために、最上階に約400トンの同調ダンパ装置を設けています。ビルに風が当たる方向は、ビル側面に直角方向(F方向)とビルのコーナー側に当たる斜め方向(Q方向)あり、その状況を図3に示します。
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図3 ビルに当たる風の方向 (注3) |
2.シティコープビルの設計変更の経緯
このビルの設計者、ウイリアム・ルメジャーは、当時としては革新的なビルの設計者として活躍しておりました。
この斬新なビル設計に対して、構造の強度面から「脚柱は、ほぼ正方形の区画の4つのコーナーに建てるべき」という意見もありましたが、教会が区画の中心に移動しなければ不可能なことでした。設計者のルメジャーは、脚柱をビル側面の中央に建てても、図2に示すような大きな斜めの筋交いを入れる構造にしており、構造の強度面は問題がないとしておりました。しかし、溶接を必要とする筋交い部分の接合が、施工業者によって施工期間の短縮とコスト低減により、ボルト接合に変更されていることが、ビル竣工後に判明しました。
ルメジャーは、ニューヨーク市の建設基準をベースに、ビルの側面に直角方向に当たる風(図3のF方向)に対する強度を計算してから構造設計を実施しました。しかし、ビルのコーナー側(図3のQ方向)、すなわち、斜め対角方向に当たる風を、風洞実験を行って強度計算をすると、側面直角方向より160%強の風力に耐えなければならないことが判明したのです。
ルメジャーは、このことを公表すれば設計者としての信用が落ち、彼がトップの設計会社の経営状態が危機的状況に陥るとも考えました。しかし、ルメジャーは、多額の賠償請求をされたとしても、補強工事を実施することを決断、直ちに行動に移りました。その行動プロセスを以下に記述します。
- 1977年 シティコープビル完成
- 1978年5月 施工法の変更(溶接接合からボルト接合)に気付く。
- 1978年6月 大学の学生からの質問があり、ビルの斜め対角方向からの風の影響を再検討し、接合部に想定外の応力が加わることを確認し、同時に、接合部のボルト数の少なさにも気付く。
- 1978年7月 風洞実験の結果をベースに再検討すると、16年に一度、ニューヨークを襲うと考えられる超大型ハリケーンでは、ビルが倒壊する可能性を確信する。
- 1978年8月 保険会社やシティコープビルの最高責任者であるウォルター・リストンに構造上の問題を説明し、補強工事を提案する。
その他のステークホルダーであるニューヨーク市関係者、ビルのテナントおよびマスコミに構造の上の欠陥と対応策を十分に説明し、それぞれより協力と支援を受けることができました。
その後、補強工事に要した費用400万ドルは、200万ドルを保険会社が負担し、不足分の200万ドルは「危機を未然に防いだ」として、ビルのオーナーが負担しました。ルメジャーは保険料率の値上がりを心配しましたが、保険会社からは「保険史上、最悪の災害の一つを防いだ」といって、技術者として信用され、逆に保険料率は下がったというエピソードがありました。同時に、ルメジャーは技術者として模範的な行動を取ったということで、さまざまな形で称賛されました。例えば、米国の工学アカデミー会長に就任したり、二つの大学から名誉博士号を受けたりしています。
3.シティコープビルの設計変更から学ぶ事項
今回の事例は、技術者が欠陥を発見した時点で「それを素直に認めて、改善を決断できるか」を問われています。ルメジャーを決断させたのは「このことを知っているの自分だけで、悲劇を防げるのも自分だけ」と考えたことで、そのために勇気を持って決断し、直ちに行動に移ったのです。ここで、この事項から学ぶべき事項を記述します。
- 技術者として欠陥が分った時には、自分への不利益を顧みず、勇気を持って公衆の安全を第一に考えた行動すること。
- 技術者として「これを知っているのは自分だけで、このことがもたらす危害を防げるのも自分だけである」というプロフェッショナルとして行動がとれること。
- 技術者の重要な資質として「相手が共感するプレゼンテーション能力」が必要であること。
ルメジャーは、危険な兆候が分った時に、安全性の問題にどこまで取り組むのかの決意を示し、相手が共感するプレゼンテーション能力で周囲の全関係者に協力を取り付けることができたのです。この点は、この事例で学ぶべき教訓といっても過言ではありません。すなわち、ビルのオーナーや市当局をはじめ、周囲のステークホルダーも全面的に協力した結果、安全性が確保できたのです。この事例は、欠陥が分った時点で素直に認め、勇気を持って正直に行動すれば、素晴しい結果が生じるという技術者倫理における典型的な成功例です。
ここで、本連載の「技術者倫理入門」(4)(テクノビジョンVol.493、2014年1月)の「倫理的判断を求められる問題を解決する際に役立つ事例」で解説しましたチャレンジャ号事件の技術者であるボイジョリーも危険な兆候に対して果敢に立ち向いましたが、悲惨な結果になりました。そこで、ルメジャーとボイジョリーの差異はどのようなものによるかを比較してみます。
- 2人の立場の違い
ルメジャーが、設計会社の責任者として、予見される結果に影響を与える立場にいるのに対して、ボイジョリーは上司に働きかけ、その支持を得て行動しなければならない立場です。
- 周囲のステークホルダーの理解度の違い
ルメジャーの場合は、ビルのオーナーをはじめとする関係者が、彼の考え方や意見を熟知して協力と支援をし、着実に補強工事を実行することができました。それに対して、ボイジョリーの場合は、同僚の支持を取りつけて技術担当副社長などのルートは活用できましたが、最終的に上級副社長の判断で打ち上げは強行されました。ボイジョリーは説明する者側で、説明される側の上級副社長との間に信頼感が欠如していたのです。そこには、2人(ルメジャーとボイジョリー)のプレゼンテーション能力に差異があったと考えられます。
- 欠陥を訴える時のアプローチの違い
ボイジョリーの場合は、シール能力と温度との相関について、他の技術者からも疑問視されておりました。この事例から、相手から納得が得られる説明するには、何がポイントで必要とされているかを知るヒントがあります。それは、技術者のプレゼンテーション能力は雄弁さでなく、技術的に裏づけられた内容を持って訴えることです。ルメジャーとボイジョリーの差異は、十分に説明できるだけの具体的なデータを持っているかの違いです。この事例を通して、技術者は常に技術的な裏付けデータを確保するため、努力を惜しまぬことを自問してみることが不可欠です。
<参考文献>
1.「大学講義・技術者の倫理学習要領」:杉本泰治・橋本義平・安藤正博共著、丸善出版、2012年8月
2.「事故から学ぶ技術者倫理」:中村昌允著、工業調査会、2005年8月
3.「技術者倫理とリスクマネジメント」:中村昌允著、オーム社、2012年2月
<参考資料>
放送大学・共通科目(一般科目)、「技術者倫理」('09)の第9回、放送大学客員教授 礼野順
- <本文の注釈>
- (注1) 参考文献2の39頁の図2.3より引用
- (注2) 参考文献3の60頁の図3.5をベースに作図
- (注3) 参考資料より引用
< 技術者倫理入門 (10) 技術者倫理入門 (12) >
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