【連載:技術者倫理入門 (1)】 技術者倫理とは
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技術士をはじめとする技術者は、「技術者倫理(engineering ethics)」の基礎を把握した上で、それを実践することが不可欠です。そこで、わが国では1999(平成11)年から理工学系高等教育機関で、「技術者倫理」の教育が行われています。この「技術者倫理」の基礎的な事柄を10回にわたり解説します。この解説シリーズの第1回は「技術者倫理とはどんなことでしょうか」と聞かれた時に、簡単に平易に答えることができる内容を提示します。 1.技術者(engineer)の語源「技術者倫理」は「技術者」と「倫理」の合体した言葉で、最初に「技術者」と「倫理」について、それぞれの語源を解説します。1970(昭和45)年代、米国の理工学系大学で、engineering ethics(技術者倫理)の講義がスタートしました。このengineering ethicsをわが国に導入する際、この言葉を「技術者倫理」と邦訳したのです。正確にはengineeringは「技術業」と邦訳されており、engineering ethicsは「技術業倫理」となるべきと考えますが、農業や工業の言葉と違って「技術業」は違和感あります。そこで、「技術業(engineering)」を行うのは「技術者(engineer)」ということで「技術者倫理」の邦訳が多用されています。しかし、わずかながら「技術業倫理」や「工学倫理」の邦訳もありますが「技術者倫理」と同じです。 このengineeringの邦訳として「技術者」を当てておりますが、その語源はそんなに古いものではありません。 15世紀レオナルド・ダヴィンチ(1452〜1519年イタリア人)など多くの天才が、いろいろな装置や機械を発明しました。このような人々を、科学・芸術の分野において創造的で非凡な才能を持った天分を与えられた者「en+genius+er」〈注1〉すなわち「engineer」と称するようになりました。
2.倫理(ethics〉の語源倫理という言葉自体は、古代中国・周末期の「礼記」〈注2〉の書物の中にあります。わが国での英単語「ethics」の邦訳は「倫理」で、明治の初期に井上哲次郎〈注3〉が「礼記」にある「倫理」を引き当てたとされています。ここで、明治初期における英単語の邦訳の実情を解説します。江戸末期から明治初期にかけて、多くの英単語がわが国に入り、当初は英単語の発音をカタカナ表記で使用していました。しかし、明治新政府で文部大臣になった森有礼〈注4〉が英単語のカタカナ表記を、二つの漢字を組み合せた漢語に置き換えるよう当時の有識者に依頼し、多くの英単語が日本漢語に変換されました。 その代表的な例は以下となります。
また、現在では小中学校の教科書に掲載されている約3000の漢語の中で、およそ1000の日本漢語が中国の教科書に採用され、日本漢語のセンスのよさ、すなわち、抽象的表現の的確性が評価されております。 しかし、ethicsの邦訳「倫理」は造語力による日本漢語でなく、中国の古典より引用された漢字「倫理」を当てはめたことで、中国の古典になじみのない日本人には、なかなか倫理の本質的な概念が理解できにくい状況となっております。つまり、倫理の漢字が示す「倫」と「理」のそれぞれが持っている意味から、倫理の概念を理解することが困難になっています。もし、仮に井上哲次郎か、別の人が「ethics」を漢字二文字の組み合せによる日本漢語に変換していたら、もう少し「ethics」や「倫理」の概念が、わが国では親しみ深いものになっていたのでは……と考えてしまいます。このような経緯から「倫理」という言葉の概念を理解することが難しいのです。 ちなみに、「広辞苑(第5版)」において「倫理は人倫のみち、実際道徳の規範となる原理道徳」と記載され、さらに、倫理に深く関連する倫理学を調べてみると、「“ethics”は井上哲次郎が当てた邦訳で、社会的な存在としての人間の間での共存の規範、原理を考察する学問」と記載されています。 3.倫理と法律の補完関係倫理の用語をより明確に把握するために、倫理とモラル、法律と常識を対比します。(図-1「倫理とモラル」および「法律と常識」を参照)
4.技術者倫理とは技術者と倫理の概念を合体し「技術者倫理」の概念を簡単に、かつ平易に解説します。「技術者倫理」が注目されるようになったのは、わが国では近年のことです。「技術者倫理とは、どんなことでしょうか?」と聞かれた場合に、これを簡潔に答えることはなかなか困難です。図-2(技術者の人間関係)はその準備に必要な図です。倫理は対人関係の規範であり、一般形は人と人(自分と他人)の直接な人間関係です。すなわち、他人のことを直接的に思いやる人間関係です。そこで、技術者の対人関係は
図-2において、(1)と(2)の二種類は一般形のとおり、直接的な人間関係です。一方、(3)はモノ(ハード、ソフト、またはサービス)を介した間接的な人間関係となります。
「技術者倫理」の特徴は、このような公衆との人間関係にあります。なお、公衆とは一般市民で、技術者の業務により、その結果についての十分に知らされることなく、同意もない状態で何らの影響を受ける人々のことです。 分り易い例として、ペットボトルと飲料水が挙げられます。これらを開発し、製造する技術者は購入してくれる消費者(公衆)が美味しく飲んで満足してくれることを望みます。飲料水、つまりモノを介して間接的に思いやる人間関係ということです。また、ペットボトルの形状(持ちやすいなど)で消費者が満足することも「技術者倫理」の実践のひとつといえます。 「技術者倫理」を平易に分り易く、手短に表現すると「技術者がモノやサービスを介して、消費者や一般市民に喜んでもらえる状況をつくり出す間接的な人間関係」です。しかし、単に倫理となると「人が他人に対して喜んでもらえる状況をつくり出す直接的な人間関係」ということになります。 なお、「技術者倫理」に関する本は多数出版されておりますが、そのなかで「技術者倫理」の定義を記述している個所を見つけることが困難です。 しかし、放送大学「技術者倫理('09)」の第1回目の講座で、札野順氏が「技術者倫理」の定義を述べており、参考までに転記します。 「技術者が、ある社会集団において、研究・経験・実務を通じて獲得した数学的、科学的知識を駆使して、人類の利益(=価値)のために自然の力を経済的に活用するうえで必要な行為の善悪、正と不正や、その他の関連する価値に対する判断を下すための規範体系の総体、ならびに、その体系の継接的、批判的検討、さらに、この規範体系に基づいて判断を下すことのできる能力」の表現で、なかなか難解な定義です。 5.技術者倫理とモノづくり技術者は「技術者倫理」を学習し、その本質を把握した上で、必ず実践しなければ効果は生じません。筆者はあるメーカに40年ほど勤務し、製品開発などを主に経験したことより、「技術者倫理」の実践が人材の育成につながることを痛感しました。この人材育成が、製品開発を成功させ、また製品の生産力を向上させるベースになり、製品を使用するユーザに喜んでもらえる状況をつくります。 すなわちモノづくりは人材育成で、そのスタートは「技術者倫理」の把握と実践です。(図-3「技術者倫理」と「モノづくり」の関係を参照)
<参考文献> 「大学講義・技術者の倫理学習要領」杉本泰治・橋本義平・安藤正博著、丸善出版、2012年
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